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歯学部卒業まで

入学して新入生達と初めての顔合わせ。まず驚いたのは同級生達の出身高校でした。開成高校を筆頭に済々黌高校・鶴丸高校・熊本高校・東海高校・滝高校等々日本全国のエリート校出身者達がズラリ!!。「付いてけるだろか、そもそも普通にコミュニケーションとれるんだろか?」と不安になりました。一方で何年間も仮面浪人(私は1年間だけですが)してきた人達や社会人として働きながら勉強を続けてきた人達(最高齢の方はなんと36歳、ストレートに進級しても6年後の卒業時には42歳!!)が入学定員60人中10人くらいいて安心もしました。エリート校出身者達もいざ付き合ってみると皆、ごくごく普通のいい連中ばかりでしたね。新学期が始まって他学部との違いというか違和感を感じた事があります。秋田大学・鉱山学部(現在の理工学部)・機械工学科では2年生から材料力学、流体力学や熱力学など専門科目の講義や実験がカリキュラムに入ってきたのですが、長崎大学では違いました。今の医学部・歯学部は全国的に6年1貫教育になっている様ですが、当時の国立大医学部・歯学部は最初2年間の一般教養課程とその後4年間の専門課程がはっきりと分かれていました(教1~教2・学1~学4と呼ばれていました・当時兄が通っていた国立三重大学医学部でも全く同じ)。一般教養課程では専門科目が一切無かったですし又、秋田大学で取った単位が制限いっぱいまで認めてもらえましたので、正直言って相当楽な日々を送っていました。家庭教師のアルバイトをやりまくってましたね(1日に2軒ハシゴすることも)。時給は何と8千円!!(医学部生:1万円・歯学部生:8千円・薬学部生:7千円・その他の学部生:4~5千円が相場でしたね)バブルがはじける前だったということもあったのでしょうか?。最初の2年間は楽しい思い出しかありません。3年目(学部1年:学1)になるといよいよ歯学部専門課程に入ります。最初の関門は「人体解剖」です。歯学部で全身の解剖実習があることを知らず、困惑しきっている連中が結構いました。が、私は密かに心待ちにしていました。せっかく人間として生まれてきたのです。自分も含めて人の体がどんな構造になっているか実際に見たくて、知りたくて仕方がなかったのです。学生6人で1体のご遺体を解剖するのですが、皆躊躇してなかなかメスを入れませんので私が第1刀目を入れさせていただきました。半年かけて無事、全身の解剖が済むと試験が待っていました。その成績上位3人中の1人が、慰霊祭(主催は医学部と歯学部が毎年交代で行う事になっており、その年は歯学部主催で行われました)で「ご献体いただいたご遺族達への感謝の言葉」を述べることになっていました。私の成績はというと1学年60人中の何と2位!!(楽しくて勉強しただけなんですけどね・・・)。という訳で候補者の1人として解剖学講座の教授室に呼ばれて3人で行きました。「さて、誰にやってもらおうかねぇ」という話になったわけですが、私は大勢の人前で話すのは大の苦手です。本当にどうなる事かとヒヤヒヤしたのですが結局のところ、「ジャンケン」に勝って私はお役御免となることが出来ました(ご遺族の方々にはこの場を借りて厚く御礼申し上げます)。学3後期(6年制でいうと5年生後期)から始まる臨床実習は本当にキビシかったですね。今は違うかもしれませんが、当時は実際に患者さん達の治療をしました(もちろん無免許)。緊張しすぎて「頭が真っ白」だったので、ほとんど記憶がありません。が、何とか及第点は得られたみたいです。臨床実習終盤に並行して行われた卒業試験も本当に本当に厳しくて辛かったのを覚えています。「卒試(卒業試験)通れば国試(国家試験)は余裕」と言われていました。そのせいか当時の長崎大学歯学部は国家試験対策に関しては「完全放置」で「合否は個々の学生の自己責任」という方針でしたね(私はそれが当たり前であり又、そうあるべきだと思います。特に国公立大学の学生は税金で勉強させてもらった分なおの事)。国家試験向けの講義等なんて一切無く、学生時代最後の日々を自由にさせてもらえたのは今思えば本当に幸せな事だったんだなと思います。その後ついてご興味がお有りの方は「大学病院勤務医時代」をご覧ください。